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世にも恐ろしい「脚気」に苦しんだ江戸の人々を救った“ある野菜”

有名中学入試問題で発見する「江戸時代の日本」⑥お茶の水女子大学附属中学校

■5代・綱吉の時代から江戸は白米が溢れる町に

 江戸前期まではまだ戦国の遺風も残り、生活もそこまで戦国時代と違うほど
ではありませんでした。ところが武断政治は3代・家光まで。4代・家綱から
は「文治政治」に大きく舵は切り替わり、以後「泰平の世」が幕末まで続きま
す。

 元禄時代は5代・綱吉の時代で、最初に書いたように「庶民(町人)の文化」が開花しました。

 当然ですが食生活も向上するわけで、ここで初めて「江戸の町は白米が溢れる稀有な町」となったのです。

 それまで庶民は戦国時代よろしく玄米や片搗米を食べていました。脚気は白米を食べられる富裕層の病であり、その患者数は人口から見れば少ないものでした。

 しかし経済的にも生活も豊かになるにつれ、庶民も米ぬか(この場合はビタミンB1)を取り除いた「白米」を常食するようになります。

 これが彼らの健康を奪うのですから微妙なのですが…。

 そもそも江戸の町は極めて特殊な町で、当時の日本でダントツに「米が溢れる町」でした。乞食でさえ、「米が食えなきゃ死んだほうがマシ」と。それぐらい「お米が氾濫している町」「お米が食べられないなんてありえない町」だったんですね。

 その理由は簡単です。お武家様が人口の半分を占める、武家の町。

 ということは、彼らのお給料たる「お米」が(換金のためもあり)江戸の町中のお米屋さんに満ち満ちているわけです。そして当時は米俵ですから、どうしても俵のそばにはお米が多少なりとも零れて落ちていたりするものです。

 こうして江戸の町は「日本唯一の白米の町」となったため、江戸在住者の
みビタミンBが常に欠乏→江戸の町で脚気が広まるようになったのです。

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瀧島 有

たきしま あり

江戸文化歴史研究家

江戸文化歴史研究家。学校や教科書が教えない、江戸の町の武家・庶民の真実の姿、風俗や文化、食べ物などを研究する傍ら、江戸文化勉強会「平成江戸幕府」を主宰。フェリス女学院大学、内閣府クールジャパン・アドバイザリーボード・メンバーなどを経て、法政大学文学部史学科に在学中。著書に『あり先生の名門中学入試問題から読み解く江戸時代』など。


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  • 2015.11.01